美咲のルーティン
ーまた、白髪が増えた?ー
朝、歯を磨いてから洗面台で自分の顔を確認する。
美咲は、染めている自分の髪の内側からにじみ出る白に戸惑う。
ーまた、年を取った?ー
美咲は、鏡に映る自分の顔に小さな皺を発見する。
これから出勤しないといけないのに、体中の力が抜ける。
あの日から、美咲はずっとこんな感じで、朝自分の顔を鏡で点検するルーティンに精神を蝕まれている。
「それまで」は、少し白髪があったとしても染めてしまえばいいと思っていたし、顔の皺もそこまでは気にならなかった。だけど、「あの日」から、美咲はずっとこのルーティンに精神を蝕まれている。
少し放心状態が続く。
少しづつ意識が戻り、鏡の中にクリアな自分を発見する。
「仕事、いかなきゃ...」
このまま鏡の前に立っていると、このルーティンに精神を完全に蝕まれてしまい、私が私ではなくなってしまう。
そして、「あの子」は、それをずっと待っている。
ーザックザックにしよー
だめだ。
それはだめだ。
私が私でなくなる。
胃の奥から嘔吐物がこみ上げてくる。それを吐き出してしまわないように必死で我慢する。呼吸が浅くなる。美咲は自分の手で口を押える。
洗面台に突っ伏しながら嗚咽に似た声を上げる。何も出ない。何も考えられない。私の中には何も残っていない。
視界が涙で滲んでいる。
「仕事、いかなきゃ...」
そして、きちんと自分をコントロールしなきゃ。
美咲はようやく自宅のドアを開け、仕事へ向かう。
ザックザックにしたい
「わかった、じゃあその投資信託は解約して、今和田さんに説明してもらった方のを買うよ」
「ありがとうございます」
顧客の老人がそう言ってくれたので、美咲はホッとした。
美咲の勤務先の証券会社では、今月キャンペーンを行っている。
キャンペーンとは一体何かと言うと、要するに営業部の各課を競わせて営業数字を強制的に達成させるために行われるものだ。
だからここ数日、美咲は朝から顧客に電話をしてアポを取る、を繰り返していたのだが、なかなか思うように数字を稼ぐことが出来なかった。
「ところでさ、今度、また食事付き合ってほしいんだけど」
今買っている投資信託を全額解約し、別の投資信託を買ってくれると言ってくれた顧客の老人がそう言った。
この老人は、たまにこうして美咲を食事に誘ってくる。
証券会社の営業マンは顧客が買っている金融商品を解約させて別の金融商品を買わせることで手数料を稼ぐ。
そして、その手数料が営業成績として評価される。
だから、美咲は自分の良心に反する場合でも、顧客に反射的に投資信託を解約することを提案する。
大きな屋敷のような家に住んでいるこの老人は妻も子供もいないが、かなりの資産を持っていることは確かだ。
数年前、たまたま飛び込みでインターホンを押してみたら意外と話を聞いてくれ、それ以来老人は美咲の上客となった。
「ええ、また今度お願いします」
美咲は、顧客に誘われた場合は毎回こう言っておき、たまにゴルフや食事を付き合うようにしている。もちろん、明らかに下心がありそうな場合は断ることもあるが。
「いつだったら大丈夫かな?」
老人が、粘りつくような口調で言う。
「?」
何となく、いつもの老人と違う感じがする。
ーこんな顔だったけ、この人?ー
どちらかと言えば彫りが濃い印象の老人の顔が、のっぺりとした顔に変化している感じがする
。
「戻って予定を確認しておきますね」
美咲が愛想よくそういう。
老人は、表情のない顔でじっと美咲を見つめてくる。
美咲は、だんだんと気味が悪くなってくる。
ーいったい誰だ?目の前のこの男は?ー
明らかに、美咲が見知っている老人とは別の人物に顔がすり替わっている気がする。
現実にはそんなことはあるはずがない。だけど、老人の顔は別の誰かの顔にすり替わっている。
のっぺりとした顔の、得体の知れない、誰かに。
「和田さんね、そう嫌がらなくていいじゃない。もう、子供じゃないんだから、もう、少し前までのあなたではないんだから」
ー何を言っているの?この人は?ー
「和田さんね、時間ていうものは巻き戻せないんですよ。どれだけお金を払ったとしても、時間を取り戻すことは出来ないんですよ。だからね、あなたはもう前みたいには戻ることは出来ないんですよ」
老人は、粘りつくような話し方で続ける。
ー何を言っているの、この人は?ー
美咲の頭の中でノイズのようなサウンドが響き出す。
「和田さんね、あなたはずっとつらかったんだと思いますよ、ええ、物凄くつらい。同情します。だけどね、時間は巻き戻せない。あなたが苦しんだ時間、あなたの「片割れだった人」は幸せな時間を過ごしていて、きっとあなたがいなくなってよかったって思っていますよ。だけど、時間は巻き戻せない。あなたは歳をとっていく。残酷ですよねえ」
ーもしかして、「あのこと」を言っているの、この人?ー
頭の中で鳴り響くノイズが段々と大きくなってくる。脳の奥の暗闇から声が聞こえてくる。
ーだめ、出てこないでー
美咲の視界が歪む。
ー出てこないでー
だけど、声は聞こえてくる。
暗闇の中から、声が聞こえてくる。
ーザックザックにしよー
甲高い、少女のような声が聞こえてくる。
ーねえ、ザックザックにしちゃおうよー
美咲の手がバッグの中に誘導される。
ーザックザック、ザックザックだよー
美咲は少し沈黙する。
老人はじっと美咲を見つめている。
「そうだね、ザックザックにしちゃおっか」
美咲が声に答える。
美咲の手がバッグの中の包丁に触れる。
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