★前回までのあらすじ
ーあと少しだったのにー
黒猫は、自分を助けてくれたあの二人に、伝えるべきことを伝えられなかった後悔を抱えたまま、暗黒の世界に旅立とうとしていた。
ーあと少しだったのにー
黒猫の体は、すでに体毛がモップのようにガサガサになり、むき出しの白い牙は乾燥して骨のようになっていて、自分を助けてくれたあの小さな二人が、一生懸命に土を掘って埋葬してくれた墓の中で、朽ちた肉を食らう無数の虫たちに侵食されていた。
虫たちは、まだ血の香りのする肉を貪り続け、女王はそこで卵を産み、黒猫の体はすでに虫の棲み処となり、土となろうとしていた。
「おかしいな、ここの肉だけは食いちぎれない」
食欲旺盛な虫の子たちが、ついに黒猫の心臓の位置にまで達し、鋭利な牙を貫通させ、頭をスクリューのように半回転させて必死で食いちぎろうとするが、なぜかその部位だけは食いちぎることが出来ない。
それどころか、心臓に食らいついた虫の子たちの牙が次々と砕け、体が内部から破裂して消えていく。
「なぜだ?」
虫の子たちを産んだ女王の、黒光りするその巨大な牙でさえ、黒猫の心臓に食らいついた瞬間に粉々に砕け散ってしまった。
「お前たち、逃げなさい...」
その瞬間、女王は理解した。
ーこれは、まだ生きているー
私たちが食らいつくしたと思っていた、この腐敗した肉の持ち主は、まだ生きているのだ。
そして、「これ」は、私たちが内部で繁殖し、増え続けるのをずっと待っていたのだ。
「早く...逃げなさい!!」
女王は、叫んだが、もはや手遅れだった。
虫の子たちが破裂する、プチッ、プチ、という小さな破裂音が幾十にも重なり、女王の長い触角を無慈悲に振動させる。
女王の目の前では、黒猫の真っ赤な心臓が、ゆっくりと動き出している。
頭上の大地に生えた草がざわめき、植物の芽が高速再生されている動画のように蔦を伸ばして天を目指している。
女王の体が破裂し、紫色と茶色が混じったクリーム色の液体が飛び散り、真っ赤な黒猫の心臓を濡らす。
ーあの二人を助けないとー
一度途絶えかけた黒猫の命が、自身の体内で繁殖した無数の虫たちの命を吸収し、再び蘇る。
虫たちが食らいつくしたはずの朽ちた肉に、再び動き出した心臓から血液が送り出され、その血の流れが凝結して血管となり、黒猫の体が再生されていく。
黒猫は、まだ薄い光の中にある意識の中で、モップのようにガサガサになってしまった自分の体毛を撫でてくれた、あの少女の手の温もりを思い出していた。
ーありがとうー
一度閉じた黒猫のスカイブルーの瞳が、ゆっくりと開いていく。
頭上の大地では、草のざわめきがさらに激しさを増し、光を帯びたエメラルドグリーンの植物の芽が蔦を伸ばし続けている。
ー今度こそ、君を助けるー
黒猫は、再び誕生を許されたこの世界で、必ず成し遂げるべきことを自分に言い聞かせた。
「白猫を探す?」
僕がそう聞くと、
「見つけないと、ちょっとまずいんだよね」
彼女はそう言った。
「お姉さんが飼ってる猫なの、あの白猫?」
「まあ、そんなもんかな」
彼女は、吸っていたタバコを地面に放り捨てると、白いスニーカーの底でまだ火を宿している灰の部分を踏んだ。
「ポイ捨てはダメだと思うけど」
「何言ってんの、煙草って、元々自然に生えてきた葉っぱを乾燥させて作ってるんだから、ただ自然に還してるだけじゃない」
彼女は、よく分からない理論で、自分が煙草をポイ捨てしていることを正当化していた。
変わった女だと思った。今まで会った女、というよりもどの人間とも違う、独特の何かを持っていた。
彼女を特徴付けているそれは、雰囲気でもなく、赤くてしっとりした唇でもなく、ショートパンツから伸びている白くて張りのある脚の肉でもなく、もっと別の何かだった。
「お姉さんって、この辺りに住んでる人なの?」
「そんなことどうでもいいから、あの子のこと探すの手伝って。私はあっちの方を見てくるから、あなたは境内の周りとか、あっちのあたりを見てくれない?」
ざっと境内を見渡したところ、目に見える生物と言えば、松の木にしがみついて鳴いているクマゼミくらいで、白猫の姿はどこにも見当たらない。
「あ、そうだ」
「?」
「水の近くには近寄っちゃだめよ」
「水?」
「そう、この神社では、水のある場所には絶対に近寄っちゃダメなの」
今日は晴天だからどこにも水たまりはない。そして、この神社には手を洗う手水舎も設置されていないので、水がある場所自体がないはずだ。
そもそも、別に水があったとしても、致死性の有害物質でも含まれていない限り、別にそれに触れても何も問題はないだろう。そんなことを言っていたら、僕たちは水道水に触れることすら出来ない。
「水って...」
「とにかく、近寄らないようにして」
僕が言葉を発する前に、彼女がこちらをじっと見ながら、かなり強い口調で言った。
ショートカットにくっきりとした二重で鮮明な茶色の瞳、内側から溢れる血液が薄皮の中で弾けそうな唇。
どことなく、ハーフのような雰囲気の面立ちをしている彼女は、やはり最初会った時に受けた印象通りの美人だった。
「わかった」
とりあえず、よく分からないが了承して、僕は白猫を探すことにした。
どうせ行方不明になった猫なんて見つかりっこないので、適当に探すフリをして、それが終わったら彼女を食事に誘おうと思っていた。
まさか、こんな神社で、こんな美人と知り合えるとは。
極めてアンバランスな感じがする出会いに、僕の心は何となく踊っていた。今朝、ビジネスホテルの一室で、美しくスライドしていた美咲の肩甲骨の滑らかな動きが、彼女の赤い唇の動きと連動しているような錯覚を覚えていた。時間差で、同じような状況が目の前にいる彼女との間にも訪れるのではないかという期待が僕の脳内を支配していた。僕の予感は、これまで大体当たっていた。
もう白猫のことなど、はっきり言ってどうでもよくなっていたが、一応は真面目に探しているフリをしないといけない。
僕は、狭い神社の境内の松が生えている個所をゆっくり歩き、白猫を探した。
小さな草むらがあったので、そこを覗いてみたが、緑色のショウリョウバッタが一匹じっと息をひそめていただけで、白猫はいない。
頭上からは相変わらず蝉の鳴き声がしていて、松の細長い葉から発散される薬品を薄くしたような匂いが漂っている。
松の樹が生えている場所を歩き、その後ろ側や枝の上に白猫が隠れていないか確認してくが、予測通りそこに白猫はいない。
向こうの方を見ると、彼女が草むらを覗くために屈んだり、松の樹の上を見上げて白猫を真面目に探している。
「どこか遠くにいっちゃったんじゃないのか?」
僕は、境内の真ん中に位置する社の下のスペースを探してみたら、白猫の捜索を一旦終了しようと彼女に提案しようと思った。
手首に巻いているSEIKOの腕時計を確認すると、すでに時刻は17:00時になっている。
ーそんなに時間が過ぎていたのか?-
僕がビジネスホテルを出たのは12:00頃だったはずだ。居酒屋に滞在していた時間を考えても、時間が過ぎるのが早すぎる。
空を見ると、さっきまでは真っ青だった夏の空が、雨を含んだ紫色の雲に覆われている。
異空間に足を踏み入れたような感覚が、僕の身を包み込む。
湿気を含んだ生暖かい空気が神社の境内に流れている。さっき彼女が言った言葉が耳の中で囁くように再生される。
「水の近くには近寄っちゃだめよ」
境内の中央にある社の近くまで行き、腰をかがめて軒下のスペースを覗き込む。
ー暗いなー
軒下の奥は真っ暗で、古い材木の少し焦げたような匂いと、土の匂いが混じり合った冷たい空気が流れている。
この社は四隅を太い柱で支えている構造で、軒下の向こうの部分は空洞になっているようだ。
案外、こういったところに白猫は隠れているのかもしれない。
ほふく前進のような姿勢で軒下に潜りこみ、「にゃあ」と、猫の鳴き声を真似た声を出してみる。
「...」
確かに、今、軒下の奥の方から、猫の小さな鳴き声が聞こえた気がする。
目を凝らして、その方向を凝視すると、瞬間的に白い影のようなものが横切る。
「なんだ、ここにいたのか」
これで捜索終了だと思うと同時に、猫を捕まえて彼女に渡してしまったら、一緒に食事には行けないことに気付く。
それは残念だが、とりあえずは白猫を捕まえようと思い、ほふく前進の姿勢で腕を使って軒下の奥へと入っていく。
スーツが汚れてしまうが、着替えがあるのでいいだろうと思い、シャツをまくる。
腕に、土の懐かしいジャリジャリとした感覚を感じる。子供の頃はこうして土に触れることもあったが、大人になってからは忘れてしまっていた感覚だ。
軒下先の部分にまで僕の足先が入り、体のほとんどが真っ暗な空間に吸い込まれた状態になる。あまりも暗すぎるので、ポケットのスマートフォンを何とか取り出して画面の光で照らそうとするが、画面が光らない。
ー電源が切れているのか?-
さっきまでは、充電はフルチャージに近い状態だったはずだが。
「...」
そう思った時、また少し先の暗闇で白い影がよぎった。
どうやら白猫はここにいるようだが、暗すぎて光がないので捕まえることは出来ない。
一旦、ここから出て捕まえる方法を考えよう。もしかしたら、飼い主である彼女から呼び掛ければ、白猫が自分から出てくるかもしれない。
そう思って、車がバックするように、ほふく前進の姿勢のまま体を後ろへ後退させようとする。
ーぴちゃー
突然、暗闇のどこかで、水が漏れて水滴が落ちたような音が響く。冷えた軒下の暗い空間に、雨が降る前の湿った空気の匂いが満ちている。
ーぴちゃー
また、水滴が落ちる音がする。
「水の近くには近寄っちゃだめよ」
彼女がさっき言った言葉が再び耳の奥で再生される。
水滴が落ちるような音がした方向を見つめるが、やはり何も見えない。
なんとなく、不気味になってきたときだった。
突然、電源が切れていたはずの、僕のスマートフォンが鳴った。
→to be contenued
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