虫たちが透明な羽根を震わせて鳴く、ジー、ジー、という低い音が、草の間から幾重にも重なって聞こえてくる。
僕は、今、あの夏に彼女と一緒に侵入した水路の穴の前にいる。
「ねえ、なんでこんなところに来たがるの?」
「夢でね、あの水路の穴の中から、誰かが私に呼び掛けてきたの」
「夢で?」
「そう、早く来てくれって、でないと助からなくなる、てね」
あの時、彼女と交わした会話が頭の中に蘇ってくる。
僕の記憶の瘡蓋は、まだ傷口をコーティングしたままで、この穴の中で僕と彼女が何を見たのか思い出せない。
彼女は、一体、あの時、何を探していたんだ?
いつもは記憶の瘡蓋に抑え付けられていて全く思い出せないはずの彼女の姿が、今は脳の中のスクリーンににはっきりと映し出されている。
その映像はまるで、短いスパンで繰り返し再生される短編映画の宣伝のようだ。
彼女は幼い僕の手を引き、水路へと続く団地裏の道を歩いていく。紫陽花の葉の裏に張り付いているテントウムシが、ゆっくりと動いている。僕と彼女は、水路へ降り、暗い穴の中へと侵入していく。そのシーンが、繰り返し脳内のスクリーンに映し出されている。
ー僕たちは、この穴の中でいったい何を見たんだ?ー
僕は、目を閉じて思い出そうとする。
そうだ、僕は、穴の中で背後から僕たちに迫ってきた激しい水の流れから逃れるため、行く手を遮っていた煉瓦製の壁を蹴った。
すると、壁がグルリと回転して、僕と彼女はその向こうに広がる広い空間へと逃げることが出来たんだ。
その広い空間で天井を見上げると、そこには奥深い暗黒が広がっていて、ゆっくりと螺旋を描くようにしてダークマターが蠢ていた。
僕は、さらに意識を集中させる。
右手の人差し指と親指で記憶の瘡蓋をつまみ、ゆっくりとそれを剥がしていく。瘡蓋は強固に接着されているが、意識の爪を立て、慎重に引っ張ると、ペリペリと音を立てて剥がれていく。
ー分厚い木製の扉が見えるー
何世紀も前からその場所に嵌め込まれたままのように見える、その分厚い木製の扉の前に、僕と彼女が立っている。
そこで何を見たんだ、僕たちは?
目の前にある水路の穴には鉄の柵が設けられていて、すでに中へ入ることは不可能になってしまっている。
水が枯れてしまって随分時間が経つのか、水路の底は枯れていて、草が生い茂り、体積した泥が固まりひび割れている。
僕は、水路の穴に設置された柵に手をかけ、中を覗き込み、脳の奥でピリピリと音を立てている記憶をさらに呼び覚まそうとする。
古いプラスチック製のフィルムケースに入れたまま、現像されずに時間が経過してしまったカラーフィルムを現像液に浸し、ゆっくりと浮かび上がってくる映像を凝視するようにして。
目を見開き、耳を澄まして、水路の穴の奥に広がる暗闇に意識を集中させる。
微かに、チロチロと、水が流れる音を鼓膜が感じ取る。
まだこの穴の奥には、僅かだが水が流れていて、その水は、どこかへ向かって流れている。
柔らかい蛋白質で構成された脳に張り巡らされている神経のネットワークが、水の音を感じ取り、電気信号を発している。
再び脳内のスクリーンに映像が映し出される。
ーカチャー
彼女が木製の扉に設置されている取手を掴み、半回転させると、微かに音が鳴った。
「入りましょう」
そう言って彼女が取手を引っ張ったが、重くて開かない。
「僕がやるよ」
彼女に代わり取手を掴んで半回転させて引っ張ってみるが、扉は開かない。あまりにも長い年月放置されていたせいか、扉と石の壁が強固に接着されてしまっていて、思いっきり引っ張ってもビクともしない。
「やっぱりやめておこう、開かないよ」
僕は、嫌な予感がしていた。
この扉を開けてしまうと、何か不吉なことが起こるような気がしていた。そして、木製の分厚い扉は、まるでそれを忠告しているかのように重く、開かない。
「だめよ」
そう言って彼女が再び扉の取手を掴み、後ろに倒れ込むようにして引っ張った。
ーゴ、ゴゴー
微かに扉が動いた。
「さあ、引っ張って」
「...」
「早く!」
彼女に急かされ、仕方がなく僕も取手を掴み、思いっきり引っ張った。
「危ない!」
石の壁に固く接着されていた木製のドアが開き、扉に続く低い階段から転げ落ちそうになった僕の手を彼女が掴んだ。
「...開いたわね」
「開いちゃったね...」
扉の向こうの空間からは、白い煙のようなものが流れ出てきている。扉の中は真っ暗ではなく、薄光が漏れてきていて、僕と彼女を中へと誘っているように見える。
いったい、何なんだここは?
何本もの触手を持つ得体の知れない虫が、扉の中の空間で這いずり回っているような気がして、僕の足は震えていた。
「いきましょうか」
「...」
彼女と僕が扉の中に入ると、外に漏れていた薄い光が消え、真っ暗になってしまった。
いくら何でも不気味すぎる。
扉を開いた入り口から少し入った場所で立っていると、何かが暗闇の中で動く気配がした。
「いま、何か動いたわね」
彼女も、それを感じ取っていたようだった。ただ、まだ目が慣れていない状態で得体の知れない何かが潜んでいる空間に立ち入ることはさすがに彼女も躊躇していたようで、僕たちは無言でしばらくその場に立っていた。
少し時間が経過すると、段々と目が慣れてきて、扉の中の空間を薄っすらと把握することが出来てきた。
「部屋みたいになってるわね」
確かに、扉の中の空間を点検すると、天井があって四隅があり、少し広い部屋のようになっている。
「誰が作ったんだろうね、ここ」
そこはまるで、「何か」を封印するために造られた秘密の部屋のようだった。
「あそこ、やっぱり何かいるわ」
彼女が部屋の隅の方を指さしたときだった。
突然、暗闇の中で真っ赤な炎が燃え上がった。
「こんにちわ」
誰かが、僕たちにそう呼び掛けた気がした。
部屋の片隅に立て掛けられた燭台の蝋燭に火が灯り、ゆらゆらと揺れている。
風なんて通っていない、無風の空間のはずなのに、炎はユラユラと揺れていて、部屋の中を明るく灯している。
ー誰かが、蝋燭に火を付けたのか?ー
はっと我に返った時だった。
「猫だわ」
一匹の黒猫が、僕たちの方へ向かって歩いてくるのが見えた。
蝋燭の明かりを吸収し、黒い体毛がツヤツヤと輝いているその黒猫は、ゴロゴロと親しげに喉を鳴らしながら、僕たちに近づいてくる。
「あなた、ずっとここにいたの?」
彼女がそう聞いたが、黒猫はそれには答えず、僕と彼女の足に体をこすりつけてくる。黒猫の暖かい体温と、滑らかな体毛の感触を感じると、黒猫が実体の無い幻なんかではなく、きちんと生きているのだということが理解できた。
「あなたね、夢の中で私のことを呼んでいたのは」
彼女が、黒猫を抱き上げてそう言った。
黒猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、鮮やかなスカイブルーの瞳で彼女をじっと見つめた。
「こんにちわ」
黒猫が、そう言ったように聞こえた。
黒猫が「ニャア」、と鳴いたので、彼女が地面に下ろしてやると、黒猫はもう一度「ニャア」と鳴いてから、しなやかなバネのような四肢を弾ませ、部屋の外へと出ていった。
「待って」
僕と彼女が追いかけると、黒猫が扉の入り口を出たところで僕たちを待っていた。
黒猫は、僕たちの姿を確認すると階段を下りて、ピチャピチャと足音を立てながら水路を歩いていく。
「この子、私たちを外へ連れて行ってくれようとしてるわ」
黒猫は、時おり心配そうに僕と彼女を振り返り、「ニャア」と鳴き、そしてまた水路を進んでいく。
僕と彼女は、黒猫の後について歩いていくことにした。
確かに、この黒猫についていけば、奥深く迷い込んでしまったこの水路から外の空間へ脱出できるような気がした。
「ねえ...」
スタスタと前を歩く黒猫に、彼女が話しかけた。
「君はいったい誰なの?」
黒猫はそれには答えず、立ち止まってこちらを振り返り、スカイブルーの瞳で彼女を見つめると、「ニャア」と鳴いた。
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