★前回までのあらすじ
フラットフィッシュの夢と海の底
海底にべったりと張り付いた、フラットフィッシュの両対の目が、僕を見つめている。
瞳孔が閉じたその瞳は、金色の縁の部分が微かに海底に届く光を吸収し、不気味に輝いている。
時折泡が光を反射して、プリズムのような光沢を放ちながら、僕を包み込む。
必死にもがいてみても、そのプリズムは僕の力をすべて奪ってしまい、海水が脳の中にまで到達するのではないかという恐怖を覚える。
体が重い。
指に力が入らない。
水の圧力が、僕を弄び、どこかへ連れて行こうとする。
すでに、全身の血液の流れは止まっていて、意志の力だけで体を動かそうとするのだが、水流と水圧が複雑に絡み合った海の底では、僕の意志は体のどの部位にも届かない。
僕の体は、無力な浮遊体のように、無様に海の底を彷徨い、どこかへと流されていく。
ー助けてー
最後に、耳の奥にかすかに届いたその声は、夢から覚めた僕の頭の中で、まだ残像のように響いている。
窓の外はまだ真っ暗で、その暗闇の中から、海底に張り付いていた、あのフラットフィッシュの両対の目に見つめられているような感覚を覚える。
僕の脳には、フラットフィッシュの夢をすぐに掻き消してしまうシステムが組み込まれているはずなのだが、なぜか目が覚めてからしばらくしても、あの不気味な、金色の縁に覆われた目が消えない。
しばらくして、徐々に脳のシステムが稼働し始め、フラットフィッシュの夢がアンインストールされていく。
その夢が、僕の頭の中から完全に消え去る数秒前に、真っ暗な部屋の中に視線を感じる。
眼球に意識を向け、その気配の方向に、ゆっくりと焦点を合わせる。
眼球の奥の筋肉が収縮し、暗闇の中に浮かび上がっている瞳を捉える。
あの神社で見た、白猫と同じスカイブルーの瞳が、暗闇の中で僕をじっと見つめている。
海の底の話をする老人に対する疑問
「もう、帰るね」
そう言うと、彼女はベッドから半身を起こし、髪をかき上げた。
僕は、彼女の背中に薄っすらと浮いた汗を見つめていた。
彼女の脊柱が滑らかに動き、肩甲骨がゆっくりとスライドしていくのを見て、僕はようやく夢から覚めた気がした。
「また、ここに来るの?」
「多分、来ると思う」
まだ薄っすらと頭の中に残る、白猫のスカイブルーの瞳を思い出しながら、僕はそう答えた。
「じゃあ、連絡先交換しとく?」
「そうだね」
「和田美咲で登録しておいて」
彼女は何故かスマートフォンではなく、旧式のガラケーを使っていて、僕たちは電話番号を交換した。
彼女が部屋を出て行ってから、僕はベッドを出て、シャワーを浴びた。シャワーから発射される細かい棒状の温水が僕の頭や体を刺激して、ようやく皮膚の下を血流が流れ始める。
「さて、どうするか...」
今日と明日の2日間、僕は休みを取っているので、まだこの街で過ごす時間はある。
東京に帰ってもどうせやることはないので、僕はこの街で今日と明日を過ごすと決めている。
締め切った窓の向こうから、クマゼミの鳴き声が微かに聞こえてくる。
窓ガラスに遮断されてもなお、細かい振動となって届くクマゼミの鳴き声を聞いていると、昨日神社で会った女と白猫が頭の中に浮かび上がってきた。
ーもう一度、あの神社に行ってみようー
なんとなく、そう決心すると、今日の予定がメモ書きをするように頭の中にスラスラとスケジューリングされていく。
とりあえず、昨日行った居酒屋でゆっくりビールでも飲んでから、もう一度あの神社に行って白猫の喉でも撫でて、彼女が来るまでコンビニで買ったラークでも吸って待っていよう。
ー多分、彼女は来るはずだー
なんとなく、そんな予感がしていた。
★
ホテルを出て、商店街のアーケードを歩いていると、室内のクーラーで冷やされた体に徐々に体温が戻ってきて、しばらくすると蒸すような暑さで汗が体中からにじみ出てきた。
すでに時刻は12:00を過ぎていたので、お昼を食べに外に出ているサラリーマンたちや、OL、それから学校をサボっている学生に、昼間から赤い顔をしている老人もいて、アーケードは結構人通りが多かった。
昼間にこんな風にして街を歩いていると、まるで自分が社会から遮断され、彼らとは別の世界を生きているような錯覚を覚える。
自分も会社を辞めたら、ずっとこんな感覚を感じるんだろうが、それが長い時間続けばどのような変化が起こるのだろうか?
そんなことを考えながらしばらく歩いていき、昨日あの白猫に出会った脇道へと入っていく。
「いらっしゃい」
幸いにも、昨日入った居酒屋がもう店を開けていた。
「おや、まだいらっしゃったんですか?」
「ええ、明日まで休みなんで、こっちにいることにしたんですよ」
白髪の70代と思われる店主は昨日来た自分のことを覚えていたようで、「また瓶ビールにしますか?」と聞いてきた。
その通りに瓶ビールを頼み、コップに一杯目を注ぎ、喉を通過させると、昨日と同じように炭酸の刺激が喉を刺激して、デジャブのような感覚を覚えた。
店の中は昨日と同じで、自分以外には誰もいない。白木のカウンターしかない小さな店で、どう考えてもランチなんかやっていなさそうなのに、一体なぜこの時間に店を開けているのだろうか。
自分としては昼間から瓶ビールを落ち着いて飲めるのでありがたいのだが、そんな疑問が頭の中をよぎった。
それからしばらくの間、開け放たれた障子の小窓から聞こえてくる風鈴の音を聞きながら、ビールを飲んでいた。
ーなんとなく、昨日と違うー
ビールを飲んだ瞬間、デジャブのような感覚を感じたのだが、風鈴の音色が昨日と違って重い鐘の音のように聞こえた。
「注文はどうしますか」
「なにがオススメなんですか?」
「こいつなんかどうですか」
そう言うと、店主はカウンターの下の冷蔵スペースから取り出した魚を僕に見せた。
「今朝仕入れた鰈です。小ぶりですが、刺身にしたら美味しいですよ」
店主が尾を持って持ち上げた平べったい鰈を見た瞬間、頭の中にノイズのようなものが走った。
「こいつはですね、海底にべったりと張り付いて、-泳げなくなったー小魚や小さな生き物なんかを食べてるんですが、この辺りの海で獲れるやつはいいものを食ってるんでしょうね、身がコリコリとして美味しいんですよ」
「そうですか」
頭の中のノイズが、徐々に大きくなってくる。僕はそれを抑えるために、コップのビールを煽るようにして飲む。
「ぜひ食べてみてください、刺身で出しますから」
僕が答える前に、店主はすでにペラペラとした鰈に包丁を入れている。包丁を入れられたフラットフィッシュのエラから赤い血が流れている。
店主は素早く魚の頭を切断し、小さな内臓を引っ張り出し、そして包丁で身を解体し、皮を剥いでいく。
「はい、どうぞ」
薄くカットされた鰈の刺身は透明に輝いていて、薄い身をつつくと海水が漏れそうなくらい新鮮だった。
口に入れて食べてみると、確かにコリコリとして微かに甘味がある。
「どうですか、美味しいでしょう?」
「ええ」
僕は、頭の中のノイズを抑えながら、薄くて透明な鰈の刺身を口に運び、そしてコップにビールを注いだ。
「鰈って魚はね、普段は海底にべったり張り付いていて、死んで-泳げなくなったー魚が頭の上をフラフラと通過するのをじっと見てるんですよ。ただ、弱ってはいるがーまだ生きているー状態で流されてきた魚は、最後に見たのが平べったい鰈の不気味な金色の目だった、なんてこともあるみたいですよ」
無口そうに見える店主が、饒舌にそう語る。
枯葉を擦り合わせたような、不気味な響きのする声だった。
僕の頭の中でノイズが再び大きくなっていく。
ーなぜ、この老人は僕が見る夢のことを知ってるんだ?-
脳の奥に巣食う無意識からの問いかけに、僕は答えることが出来ない。
コップに残るビールを飲み干すと、僕は鰈の刺身を残したまま席を立ち、勘定を頼んだ。
その時初めて、店主の顔をじっくりと見てみた。
のっぺりとした、平安時代の能舞台に出てくる役者のような顔をしていた。
まるで感情が感じられず、さっきまでそこにいた店主とは全く違う人物のように見えた。
ーなぜ、この老人は、僕が見る夢のことを知ってるんだ?-
また、脳の奥の無意識が僕にそう語りかけた。
消えた白猫
居酒屋を出て、路地を歩いていると、どこからかクマゼミの鳴き声が聞こえてくる。
恐らくは、あの神社の樹木にしがみついて鳴いている蝉ではないだろうか?
昨日は、あの白猫に案内してもらったのですぐに辿り着くことが出来たのだが、やはり細い路地はかなり入り組んでいて、なかなか神社を見つけることが出来ない。
路地の両側には茶色い木造の古い民家が並んでいるのだが、人が住んでいる気配が全くせず、ひんやりとした空気が流れている。
商店街のアーケードの中は、まるで蒸し風呂のような暑さと湿気だったというのに、この裏路地は全く違う空間のようだ。
記憶を頼りに路地を進んでいくと、ようやく神社が見えてきた。
実際はほんの短い距離のはずなのに、足に随分と疲れを感じる。
まるで、海の中を歩いてきたように、重苦しい、鉛のようなものを引きずってきたような疲れを足に感じる。
神社の階段を登っていくと、赤い鳥居が見えたが、そこに白猫の姿はない。
「今日はいないのかな?」
とりあえず階段を登りきり、赤い鳥居をくぐる。鳥居の両脇に生えている松の木からクマゼミの鳴き声が降り注いでいる。
境内に入ると、昨日は真空状態のようだったのに、今日は風が吹いていて、彼女の声が聞こえた。
「今日は、あの子はいないよ」
昨日地面に煙草のフィルターを叩きつけて去っていった彼女が、神社の境内に戻ってきていて、また昨日と同じようにラークを吸っている。
赤い唇が煙草のフィルターに接触し、離れていく様子がスローモーションのように僕の目に飛び込んできて、その柔らかい動きに、ぞくり、とするほどの色気を感じる。
さっきの居酒屋といい、今日は昨日のデジャブのような1日だが、肝心の白猫だけがそこにいない。
本当は白猫を先に見つけて、ゴロゴロと鳴る喉の振動を指先に感じながら、彼女が来るのを待とうと思っていたのに。
「そうなんだ、毎日ここに来てるの?」
過程よりも目的が先に状況として目の前に現れたので、少し戸惑いながら僕は彼女にそう言った。
彼女は僕の問いには答えず、こう言った。
「あの子ね...行方不明になったかもしれないの」
「行方不明?」
「そう、もうここには来ないかもしれないんだけど、ここで探すしかないわ」
「?」
僕は、彼女が何を言っているのか分からなかった。
「いや、僕は昨日神社に来る途中の路地であの白猫を見かけたから、街の方に行ったんだと思うよ」
「ねえ」
彼女は、僕の話はまるで聞いていないといった様子でこう言った。
「あの子を探すの手伝ってくれない?」
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