そのコオロギのような形をした虫は、空気の流れや雲から発散されている水蒸気の量を敏感に感知し、これからかなり長い期間、もうこの周辺の土地には雨が降らないことを、まだ人間たちがそれを知らないでいる段階から知っていた。
このまま草の間に隠れていたなら、いつかは夏の太陽から放射される熱によって草は枯れ果ててしまい、自身の肉体からも水が完全に失われ、腹に卵を抱えたまま死んでしまう。
そう理解した時から、虫の行動は早かった。
虫は、異常に発達した足の裏の知覚器官を使って地下水脈の通り道を調べ、最も水脈が地面に近く、微量の水蒸気が地面から発せられるポイントを探し、そこに身を隠した。
ーここで、何とかやり過ごすしかないー
微かに地面から湧き出す水蒸気が、虫の体をわずかに濡らし、その黒い羽根がぬめりを帯びている。
虫の頭上では、一組の夫婦が暮らしている。
虫の発達した知覚器官は、夫婦の動きや会話を感知し、それを即座に小さな脳の中で映像化していた。
「いただきます」
男は、妻のかよが作ってくれた粥が入った椀を手に取ると、一気に口の中に流し込むようにして食べた。
「そんな食べ方をしたら、体によくありませんよ」
十歳以上も年下の妻であるかよは、まるで子供を叱るようにして、男に注意をする。
気が強く、生意気なところもある娘だが、男はかよを妻に出来てよかったと、心からそう思っていた。
男は、ずっと孤独だった。
両親が死んでしまった後、村の他の若者には縁談が持ち込まれて結婚していくのに、男のところには全くそのような話はなく、三十近くになってもまだ独身だった。
男の家は貧しく、畑を一つ持ってはいるのだが、あまり作物の出来もよくないので、それも原因の一つだったろう。
しかし、決定的だったのは、男がどちらかと言えば変わり者で、村の行事への参加を拒否したり、ささいなことで他の村人と言い争いをしたりと、集団生活に必要な協調性に欠けているところがあったことだろう。
村での生活は村人同士の協調のうえに成り立っているので、普通は、そんな変わり者に大切な娘をやりたがる者はいない。
「は、一人でも十分生きていけるわ」
たまに、何も置いていない小屋のような家の中で強がるようにしてそう言うのだが、徐々に男の心を孤独が蝕むようになっていた。
夜に突然起きて、両親の姿を思い出し、子供のころに迷子になった時に感じたような恐怖が男を包み込んで、発狂しそうになることもあった。
「嫁を貰わんか」
そんな男に、ある日、となり村に住む親類の老人から声がかかった。
「俺に、嫁?」
その老人は早死にした男の父親の兄で、男にとって唯一の肉親だったのだが、会うのは一年に一度隣村の祭りを見に行く時くらいだった。
「ああ、出戻りだがね、まだ若い」
老人が紹介してくれた、そのかよという娘は、一年前に一度同じ村の者のところへ嫁入りしたのだが、夫が流行り病で急死してしまったため実家に戻っていたそうだが、その実家にはすでに兄嫁の夫婦が暮らしているため、邪魔者になりたくないという理由で再び嫁入りを望んでいるとのことだった。
しかし、その村では夫が急死した家の嫁なので不吉とされ、手を上げる者はいなかった。
「器量はかなりよい娘だ、会ってみろ」
「...」
老人が男に無理やり了承させた格好で見合いをすることになったのだが、結果的には男の方がかよに夢中となってしまい、結婚することになった。
かよは、どちらかと言えば背丈が低く、小柄な女性で、少し気が強そうな目をしているが美人だった。
「俺みたいな変わり者でよかったのか...?」
かよを嫁に迎えて初めての夜、男は、自分の腕に小さな頭を乗せている新妻にそう聞いた。
「あなたと一緒になれて、嬉しいですよ、私」
「...」
「初めて会ったとき、すごく優しそうな人で、この人なら私みたいな曰くつきの女でも大切にしてくれるんじゃないかって、そう思ったんです」
かよは、新婚で嫁いだ先で夫が急死したことをまだ気に病んでいる様子だった。
「お前のせいじゃない」
そう言って、男は新妻の髪を優しく撫で、滑らかな肩を引き寄せた。
かよの目は潤んでいて、無防備な美しさがそこにはあった。
ーこれが、生きるということかー
かよの吐息を感じながら、男は、自分のことを理解してくれていた両親が死んでしまって以来失っていた、生きる喜びのようなものを感じていた。
ーこんなに幸せでいいのかー
かよとの暮らしは日々新鮮で、畑に行って家に帰るの繰り返しではあるのだが、かよは家の中をしょちゅう掃除して清潔に保ってくれているし、小さな花を摘んできて飾ったりしてくれるおかげで家の中が随分と明るくなった。
そして、何よりもかよはよく笑う娘だったので、いつの間にか男の表情も柔らかくなっていった。
男は、徐々に村人たちとも打ち解けるようになり、村の行事にも参加したり、穀物倉庫の掃除当番なども引き受けるようになっていた。
「おぬし、嫁を貰ってよかったのう」
村長も、男の変わりぶりに驚き、そう言ってくれた。
男は、幸せだった。
ーここにいてはダメだー
虫は、頭上で生活をする夫婦に好感を抱いていた。
だからこそ、そう警告したかったのだが、虫にはそれを彼らに伝える術はなかった。
それから、随分と時間が過ぎた。
虫はまだ警戒心を緩めず、民家の床下の空間で地面から湧き出す微弱な水蒸気から水分を摂取し、自身の命を保つことに集中していた。
「逃げるぞ」
「どうしたんですか、いきなり」
「いいから来るんだ!!」
ある日、虫は、幸せな日常が崩れていく絶望の音を確かに聞いた。
この街に来る時に乗った車両と同じ色をした新幹線が、レールの軌道に沿って一直線に駅のホームに入ってくる。
僕は、この街に来た時とは逆方向に向かうその新幹線に乗り、東京に帰ろうとしている。
スーツを着て昼過ぎの駅のホームに立っていると、昨日あったことがまるで幻のようで、実際に自分が見たり触れたりしたものが現実のものではないような、奇妙な感覚に襲われていた。
実際、すでに昨日あの神社で見たオタマジャクシのような黒い影や、僕の体に流れ込んだ彼女の血液や、ナイフでカットされた彼女の柔らかい唇の映像は、すでに僕の頭の中からアンインストールされようとしている。
断片的に残っているそれらの映像の解像度、そしてその時に感じた匂いや感覚の確かさから、それらの出来事が現実だということは間違いない。
ただ、今朝起きたときには、僕はスーツ姿のままビジネスホテルのベッドの上で寝ていて、彼女の姿はどこにもなかった。シャツを確かめてみたのだが、彼女の血液が付着した痕もなかった。
本当は、もう一度あの神社に行って彼女に会いたいという衝動に駆られたのだが、今日は夕方少し会社に出て作業をしなければならないことを思い出したので、シャワーを浴びて着替えをし、ビジネスホテルを出た。
フラットフィッシュの夢、滑らかにスライドしていた肩甲骨、薄暗い神社の床下、彼女の真っ赤な唇。
それらを順番に思い出し、ぼんやりとした夢の中にいるような感覚に浸っていると、どこかで、僕をあの神社に案内してくれた白猫の「にゃあ」という鳴き声が聞こえた。
やはり、深い親しみを感じる深い音韻を含んだ鳴き声だった。
「君は、いったいどこに行ってしまったんだ?」
結局、僕は、あの神社で白猫を探し出すことは出来なかった。
「また夜に来て探すわ」
ー危険すぎるー
彼女がそう言っていたのを思い出して、一瞬、駅のホームの階段を降り、街の方へ戻りたくなる衝動に駆られる。
しかし、駅のホームに入ってきた新幹線のドアが開く、プシューっという風船から空気が抜けるような音が、僕を現実へと引き戻した。
やはり、帰らないといけない。明日は、得意先との打ち合わせがあるので、今日会社に行って準備をしないと間に合わない。
僕は、ため息をつきながら、到着した新幹線に乗った。
僕は一体いつから、こんなにも何かに拘束され、そして自分の人生をコントロール出来ないようになってしまったのだろうか?
本当は街に戻り、あの神社に戻って彼女に会い、白猫を探したいのに、一体なぜ自分はそれが出来ないのだろうか?
そんな疑問が、頭の中をよぎる。
「でも、信頼を得るためには、いつもとは全然違う、全く別の自分を演じなければならないから、それを続けていると、自分が誰だか分からなくなってくる時があるの」
居酒屋で美咲が言っていた言葉を思い出す。
確かに、僕もそうだ。すでに僕はこの世の中を流れる目には見えない「流れ」のようなものに乗っていて、それは新幹線のレールのように真っすぐでブレがなく、高速でその上を通過している僕は、少し姿勢を崩しただけで遥か彼方へと振り落とされてしまう。
もしかしたら、僕は、それを恐れているのかもしれない。
同じ行動を規則的にこなす毎日を重ねていく中で、規則性に安心感を覚え、ランダム性を恐れる恐怖心が僕の中に染み込んでしまっているのだ。
ーいったい、いつから僕はこうなってしまったのだろうか?ー
新幹線の車窓の外に広がる、緑色の草たちが風に揺られて出来る波紋のような波を見つめながら、風になびく草をトランポリンにして舞い上がる、緑色の細い虫をイメージする。
薄緑色の透明な羽根を羽ばたかせ、ローリングしながら宙を舞うその虫は、ランダム性をすでに受け入れているからか、無表情に草の波に身を任せている。
僕は目を閉じて自分の頭の中に、再度その細長い緑色の虫をイメージする。
これは、ランダム性を受け入れるための儀式だ。
自分に、そう言い聞かせる。
目の奥に広がる暗闇の中で、細長い緑色の虫が、スローモーションで、薄緑色の透明な羽根を羽ばたかせながら、僕の方へと飛んでくる。
僕は、その虫を自分の中へと受け入れる。
「...を、助けてね」
彼女が部屋で最後に言った言葉が、耳の奥で再生される。
「一体何を?」
問いかけるが、そこに彼女はいないし、言葉の意味は分からない。
ただ、僕の中に受け入れられたランダム性が、また僕をあの神社へと向かわせるはずだ。
そして、僕はまた彼女を見つけることになるはずだ。
そのために、僕は今、失われていたランダム性を再び自分の中に受け入れたのだ。
その樽は、村の外れにある神を祭る社のそばに設置された小さな納屋に置かれているのだが、数十年前にそれを見た村人以外は、その樽を見た者はこの村にはいない。
この樽を見る村人は、「あの儀式」を行う際に神官の補助をする役割を割り当てられた家の者数名と村長、そして神官だけなのだ。
樽には石絵具で書いたようなコバルトブルーの青い目がいくつも描かれており、樽を構成している木材の繊維から赤い血のような液体がにじみ出ていて、まるで生きている山椒魚の肌のように見える。
納屋の中には二つの燭台に立てられた蝋燭の火が揺れ、壁には呪文が書かれた札が無数に張られている。
その札に書かれている呪文は、まだ学者によって解読されていない複雑な象形文字のような形の文字で構成されていて、文字自体が蝋燭の火で蠢いているかのように見える。
と、納屋の扉が開き、誰かがそこに入ってきた。
納屋に入ってきたその男は、この神社の社を管理している神官で、頭には長い烏帽子のようなものを被っている。
神官は無表情で、能面を平面図にしたような顔をしている。
神官は、樽に一礼をすると、ゆっくりとその場で能楽のような舞いを踊り始めた。
トンっと床を蹴った神官が宙に舞うと、樽に描かれたコバルトブルーの青い目がそれを追い、樽の隅々から血のように真っ赤な液体があふれ出す。
樽の中から、人の悲鳴のような声が聞こえる。
絶望的な響きのするその声をバックミュージックにしながら、神官が能楽の舞いのように優雅な踊りを続ける。
燭台の蝋燭の火が激しく燃え、宙に舞う神官の影が納屋の中に広がる。
不気味なオタマジャクシのような影が納屋の壁を泳ぎまわり、神官が徐々に恍惚とした表情となっていく。
樽がガタガタと揺れ、中から聞こえる悲鳴のような声が激しくなってくる。
踊りを終えた神官が、樽に向かってひれ伏した瞬間、断末魔のような悲鳴が納屋の中に響き渡り、樽が激しく揺れ、そしてピタリとその揺れが止まる。
樽に描かれたコバルトブルーの目たちが、一斉にひれ伏している神官を見つめている。
神官はひれ伏したまま、何か言葉を待っているように見える。
見えない「何か」が、発する言葉を。
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