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令和と昭和と平成という時代を生きるということ

僕は、昭和という時代に生まれ、平成という時代に様々なことを知り、そして令和という時代を生きることになったことに、軽い違和感を覚えている。

昭和や平成という時代は長かったように思えるが、過ぎてしまえば一瞬の瞬きのようだった。

ビジネスホテルの一室で今、このブログを更新しているこの瞬間は、すでに令和という時代の中で過ぎている細切れの一瞬だ。

元号が変わったからといって、自分自身の中で何かが変化するかといえば、決してそんなことはない。

昭和や平成に生きていた頃と同じように呼吸し、同じように悩み、そして同じように破り切れない自分の殻の中でもがき続けている。

ただ、最近はそれが臨界点に達してきたように感じていて、だからこそ、ブログを始めて自分というものを外部にさらけ出そうとしている。

「生きる」ということは自分の中では非常に難しい作業で、時に呼吸が止まりそうなくらい苦しい瞬間というものがある。

元号が切り替わったその日に、平成の中で流れていったそんな瞬間を思い出してみて、なぜ自分はそんな瞬間を過ごすことになったのか、思い出せる範囲で一つ一つ点検してみようと思ったのだが、結局記憶がセピア色にかすんでいて、うまく思い出すことが出来なかった。

それでも、コーヒーを飲みながら、今、再びセピア色の記憶の向こうで微かに揺れている「いつかの記憶」を自分の中で再生することを試みている。

秋の夜にJRの駅に流れていた、金木犀の香りを含んだ冷たい空気、そして、ベンチで横に座っていた彼女。

僕たちは、すでに乗るべき電車が過ぎ去ってしまった駅で、長い間将来のことについて語り合っていた。

その頃は、自分がいつかは何者かになれると信じていたので、ひどく気楽な気持ちで、彼女の話に相槌を打ったり、自分が正しいと思っていることについて話をしていた。

そうして彼女と話している間、時間が過ぎるのをとても惜しく感じていた。

金木犀の香りを含んだ冷たい空気が、やがては真空のような冬の空気に変わるのを、受け入れたくなかった。

だけど、秋から冬になるにつれて、空気が金木犀から真空に切り替わるサイクルは幾度となく繰り返され、すでに今は令和の時代に突入している。

JRのベンチに座っていた頃の僕は、いつか何者かになれるという期待を、胸に抱きながら生きていた。

しかし、ビジネスホテルの鏡に映し出されている今の僕は、すでにその「いつか」を迎えているかもしれないのに、自分が何者にもなれていないことに恐怖に近い感情を覚えている。

カフェインやアルコールでその恐怖を抑え込もうとしても、加速する血流の流れが、さらに不安を増幅させる。

目を背けてはいけない。

そう自分に言い聞かせ、もう寝る前なのに、もう一杯だけコーヒーを入れ、一口だけ飲んで鼻腔の奥で再生された金木犀の香りを消す。

秋の夜にJRのベンチで座っていた自分が、うまくイメージすることの出来なかった「自分がなるべき何者」かを、眼前に広がる令和という時代を生きる中で見つけるしかない。

かなり遠回りしてしまったが、結局、自分にとって「生きる」ということは、「自分がなるべき何者か」をイメージして具現化することによって、初めて意味のあるものになるということを悟った。

そして、同じ時代を生きている人たちが感じている「息苦しさ」の原因についても、実は「自分がなるべき何者か」が定まっていないことによるものではないかと思った。

そんなことを、寝る前に睡眠を妨げるカフェインを摂取しながら、ビジネスホテルの鏡に映った疲れ切った顔で考えてみても仕方がないのだが、令和に突入するその日にそのことに気が付けたのは、もしかしたら幸運だったのかもしれない。

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