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「生きるのが怖いの」

壁に無理やり取り付けた換気扇が、室内の濁った空気を埃まみれの外へ排出する音が部屋に響いていた。まるで夏の街路樹から響く耳障りな蝉の鳴き声のようだった。部屋の壁にはシミが無数に浮いていて、そこから薄い煙のような湿気が室内に滲みだしていていた。

そんなさびれたビジネスホテルの一室で、僕は彼女を抱いていた。

部屋の壁についたシミの数を数えながら、 僕は必死で絶頂に達さないように精神をコントロールしていた。だから、彼女の小さなつぶやきは、行為の最中の湿りの混じったうわごとのようにしか聞こえなかった。

「生きるのが怖いの」

僕が明日死ぬ蝉のように絶頂を迎え、かすんだ視界を持て余していると、彼女が再びそう言った。

「生きるのが怖い?」

「うん」

彼女は、僕の右腕に頭を乗せ、少し焦点の合わない目を潤ませながら小さく頷いた。ぼんやりとした意識の中で、その声を聴きながら、僕は彼女の髪を撫でていた。

ゆっくりと手のひらを髪に添わせてみたときと、少し力を入れて髪を撫でた時では感触が違っていた。力を入れてみると、彼女の髪に含まれている脂が手になじむような感じがして、彼女も僕も生きているのだという実感が沸いた。

「私、いっつも怖いの。ご飯を食べてるときも、あなたの胸の中にいるときも、ずっと怖いの」

「昔からそんな感じなの?」

「いっつもそう。どうしようもなく怖くなって、足の裏から焦りのような衝動が突き上げてきて、たまにどうしようもなく死にたくなるの」

僕は彼女の目をじっと見つめた。薄い茶色の瞳が、まるで陽炎のように揺れていた。その陽炎の向こうに、誰かの影が揺れているように見える。

「大丈夫だよ」

僕は背丈の小さな彼女を抱きしめたり、一緒に公園を散歩したり、それから夕暮れ時に部屋で一緒に缶ビールを飲んだりする時間をとても大切にしていたから、真剣に彼女が死んでしまうと困ると思っていた。

だから、わざと適当な答え方をして、もう反発力を失ってしまったスプリング式のベッドの上でまた彼女を抱いた。

🕐

それから随分と時は経ち、彼女の潤んだ瞳はもう僕を見つめていないし、スプリング式の古いベッドはどこかに捨てられてしまった。

だけど、彼女の問いかけはまだ僕の頭の中でメトロノームのサウンドのように響き続きていた。

「生きるのが怖いの」

その問いかけに対する答えを、本当は僕自身もずっと考えていた。いや、考えていたというよりかはその問いかけはすでに一種の強迫観念となっていて、僕の喉を締めるために添えられた手のように、ゆっくりと僕を呼吸困難に陥らせようとしていた。

ある朝、ようやくその問いに対する答えが何なのかを考える決心をした。だから、ブラックコーヒーを飲み、15分だけ思考を集中することにした。だけど、いくら思考を集中させても、たったの15分ではその深刻な問いに対する答えは浮かんでこなかった。

それから毎日のように、朝15分間そのことを考え続けた。ブラックコーヒーが何杯も僕の体に流し込まれ、その度にカフェインが僕の意識を覚醒させた。

そしてある時答えが出た。いや、本当はずっと前から僕はその問いに対する答えを知っていた。

だけど、口にするのが怖かった。口にするということは、その言葉を僕自身が受けれいるということだ。だから、実際に口に出してみたり書き出してみたりするのが怖かった。

その頃、僕は時間が過ぎるというごく当たり前の現象に対して怒りを覚えていた。

なぜなら、時間は僕の思い通りのスピードで流れることはなく、どれだけの苦痛を僕が抱えていようが、その流れをビデオテープのように早送りすることは出来ないからだ。

激しい痛みに僕は悲鳴を上げ、毎日のように涙を流していた。

だから僕は毎日怒り、そして絶望し、狂ったように祈ることしかできなかった。精神と肉体が剥離してしまうという現象は、恐らくそれを実際に体験した人間しか理解することは出来ない。

ぎりぎりの精神状態はいつも死と隣り合わせで、実際にそれで死んでしまう人もいる。生か死かを選ぶ分かれ道は、とめども無い欲望を持っているのか、それとも自分が何を欲しているのかさえをも忘れているのか、恐らくはそれが分岐点だ。

もう本当に狂ってしまうのではないかという分岐点で、僕を生の側に引き留めたのは激しい欲望だった。

本当にもうダメだという一瞬が、まるで拷問のように何度も繰り返される。そんな地獄の中で、僕は意識を失うことを必死で拒否していた。

「明日、また来ようか?」

情けないことに僕は、子供のように彼女の腕の中で泣きじゃくっていた。痛みに耐えることが出来ず、そしてそんな痛みに支配された自分に我慢が出来ず、ずっと長い間泣きじゃくっていた。

本当は意識を失ってこの世から消えてしまいたかった。そうしないと、気が狂った自分を直視しないといけない時が来そうで怖かった。

彼女が部屋に来てくれると、僕は呼吸困難の淡水魚が水面に浮かび出て必死に呼吸をするように、無我夢中でその白い肌を貪った。

意識はすでに朦朧としていて、とにかく彼女の唾液や体液を貪り、たまに確認するように肌に噛みついたりしていた。

彼女は特に何も言うこともなく、僕の頭を優しく撫でてくれていた。たまに薄目を開けたときに、彼女が僕と同じように少し意識を失いそうな表情をしているのを確認すると、なぜかとても心が落ち着いた。

それが、その頃僕が唯一心に安らぎを感じられる瞬間だった。

🕕

またいつものように、ブラックコーヒーを飲みながら、彼女の問いかけに対しての答えを考える。

ビジネスホテルのカーテンの隙間から、太陽の光が薄く差し込んでいる。白いレースのカーテンが、光を柔らかくしていて、起きたばかりの目にゆっくりとその光が染み込んでくる。

「生きるのが怖いの」

またいつものように、彼女の問いかけが頭に響く。だけど今日は首に手を添えられたような息苦しさを感じることはない。

そして、その問いかけに対する答えが頭の中に響く。その答えを、いつかの彼女や思い出したくもない自分、そしていつかの彼女や思い出したくも無い自分に似ている誰かの答えとなればと思い、ここに書き出してみる。

まずは、自分の心をまっさらにしてみて、本当にやりたいことを考えてみる。

誰もそこにはいない、地平線が遠くに見える草原で、遠くを見ながら考えている自分を想像してみるといい。目を閉じて今までで一番心地よかった風を思い出し、一番心地よかった匂いを思い出しながら。

それは花火の匂いでもいいし、好きな人の香りでもいい。コカ・コーラが夏の海で弾けたときの匂いでもいい。なんだっていいが、本当に心からリラックスできる匂いや感覚が必要だ。

とにかく独りになる。スマホの電源を切り、ノートパソコンを閉じ、家の鍵だけ持って外に出て歩いてみるのもいい。

ー自分は一体何を本当に愛しているのかー

女を抱いている瞬間を愛しているのか。

株価が動く様子を見つめる時間を愛しているのか。

それとも、まだ見たことの無い自分を愛しているのか。

ずっと問い続けてみる。そしてしばらくすると、女を抱いている瞬間であれ、株価が動く瞬間であれ、自分自身を愛していないとその瞬間は非常に空虚で無意味なものに感じられるということに気づく。

自分自身を愛するということは、自分が何を求めているかということを直視するということだ。

自分自身が求めていることというものは、きれいなことばかりではない。人に言うのも憚れるほど恥ずかしいことや、情けない欲望もそこには含まれている。

だけど、各個人という個性を与えられて生まれてきた僕らには、誰にも理解されない欲望を抱える権利がある。それが個性という権利だ。

だから、この規制やしがらみだらけの世の中でその個性を100%認め、そして自分自身の欲望を満たしてあげる必要がある。それが、自分自身を直視し、そして愛するということだ。

今生きている世の中に敷かれているルールの中で、どれだけ自分の欲望を満たし、そして本当の自分を表現できるか、それに挑戦することにこそ生きる意義がある。

だから、他人の意見になんてこれっぽっちも耳を貸さなくてもいいし、法やルールの中で自分をうまく変化させ、より愛せる自分へと自分自身を変化させていく必要がある。

いっけん窮屈なように聞こえるかもしれないが、本当の自由は制限の中でこそ生まれてくるもので、制限の中で自分の力で生み出した自由は自分を愛する力に変わる。

母親から生まれ、そしていつか必ずこの世に別れを告げる。

生まれた時点で、そんな極限まで窮屈なルールに縛られているのだから、より自分を好きになれるよう、より自分を愛せるよう、そしてより楽しく生きれるように恐れずに自分を受け入れて生きていく。

それが、彼女の問いに対する僕の答えだ。

朝、深呼吸をしてブラックコーヒーを飲み、ゆっくりと背伸びをする。そして、窓の近くで鳴く鳥の声に少し笑みを浮かべる。

そんな幸せな朝が、いつかの彼女や僕、そして今下を向いている君に訪れますように。


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