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不労所得は人の生活をより自由にし、人々をしたくもない労働から解放してくれる素晴らしいものだという刷り込みがあるが、それはある意味真実だと言ってもいい。
お金に関する問題は、はるか昔から人々を悩ませ、お金に関する問題のせいで人々は苦しみ続けている。
「お金さえあれば、思い通りの人生を歩むことが出来るのに...」
そんな風にため息をつく人々にとって、不労所得は非常に魅力的な収入だ。
不労所得は何もしなくても手に入る収入なので、月に1~2万円であっても不労所得があれば心に余裕が出てくる。
例えば、株の配当金で月に2万円程度でも収入があれば、それを配当再投資するにしろ、生活費に充てるにしろ、給与所得だけしかない場合と比べてずいぶんと余裕が出る。
特に、若年世代の場合、給与から税金や家賃を差し引いたら手元にほとんどお金が残らず、非常に金銭的に苦しいという人も多い。
そういった人たちからすれば、月に1~2万円程度の配当金収入は非常に魅力的に感じるかもしれず、株式の配当金の仕組みを知って「株を始めてみよう」と思う人も多いのではないだろうか。
その際に共通しているのは、「お金から自由になりたい」という切なる気持ちなだ。
それは、NHKの朝ドラである「なつぞら」に登場する雪次郎というキャラクターにもそっくりそのまま当てはまることだろう。
「かわいそうに、お金さえあれば雪次郎は今すぐ自由になれるのに...」
昼飯を食いに寄ったさびれた食堂で、市販の麺を茹でて冷やしただけの不味い冷やし中華を食べ終え、水みたいなお茶を喉に流し込みながら、テレビに映し出されているNHKの朝ドラ「なつぞら」の再放送を見ていたときのことだった。
「雪次郎!!川村屋へ戻れ!!」
突然、画面に映っていたオッサンが大声で叫んだので、思わずお茶が入ったコップを床に落としそうになってしまった。
僕は、「なつぞら」という連ドラを見たことがなかったので(すでにその時間は働いているので)、ドラマの筋書きは一切わからなかった。
しかし、テレビ画面で怒鳴りまくっている親父と、その息子である雪次郎というキャラクターのやりとりを見ていて、下記の点が問題になっているということが分かった。
・雪次郎はもともと川村屋という洋食屋で働いていた。
・だけど、役者になりたいので川村屋をやめた。
・親父が激怒して雪次郎を川村屋に連れ戻そうとしていた。
おおよそ、こんな感じなのだが、この親父が激怒しまくって雪次郎を川村屋に連れて行き、「自分も無償で働くのでもう一度こいつを雇ってやってください!!」と詫びを入れていたのを見て、少し引いてしまった。
「なにしてんねん、このオッサン...」
最終的に、雪次郎が泣き出して「バスケットボールじゃなくて、芝居やりたいです」的な感じになり、祖母が間に入って助けた結果、雪次郎は無事川村屋から逃走していった。
まさか、こんなに不味い冷やし中華を出すオンボロ食堂で、こんなに激しい人間ドラマを見ることになるなんて、朝起きた時には夢にも思わなかった。
そう思うと同時に、僕はかすかな違和感を感じていた。
このドラマは戦後を舞台にしているため、雪次郎の親父は頑固な昭和の親父といった感じで、せっかく固い商売に就いた息子が、「役者になる」と非常識なことを言い出したのでブチ切れてしまったのだろう。
しかし、僕はこう思った。
「雪次郎が、現在価値で年間240万円くらいの不労所得を得ていたら、多分、誰にも怒られずに芝居に打ち込めたんじゃないだろうか?」
「固い商売」という言葉からまず連想することは、それすなわち「安定」だ。
そして「安定」とは、経済的な側面から考えると「お金」を安定的に稼げる商売のことだ。
雪次郎の親父は、恐らく川村屋という洋食屋で修行をすれば、料理の腕が身に付き、雪次郎が「安定的」に稼げるようになると考えて、「収入が不安定な役者を目指すなど言語同断」、と怒っていたのだろう。
しかし、仮にその時代に「役者」が、「誰でもなることが可能で安定的に稼げる職業」だったら、親父さんは多分あそこまで怒らなかったのではないだろうか。
よく、ブロガーやユーチューバー、それからフリーランス等の職業は、「不安定だからなってはいけませんよ、夢見がちなクソガキども!!」と言われているが、それは「誰もが」「必ず」「一定の金額」を稼ぐことが難しいからだ。
一方で、公務員が安定的だとされているのは、なってしまえば「誰もが」「必ず」「一定の金額」を稼ぐことが出来るからだ。
つまり、社会的に見てよい職業か、それともよくない職業か、という判断は収入の安定度という物差しによって決定されることが多い。
モラル的な観点から考えても、収入が安定している大企業であっても、かなりエグい仕組みによって儲けている企業は存在するが(それと気付かれていないだけで)、それでも収入が安定しているので「よい就職先だね!」と言われたりする。
我々が生きるこの資本主義社会では、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、様々なことの価値判断基準のベースに「お金」という判断要素が含まれているのだ。
そういった観点から考えると、例えば雪次郎が若くして投資の天才としての才能を開花させ、すでに1億円の資産を築いていて、その資産から入ってくる配当金が年間240万円くらいあったとしよう。
その場合、恐らく現代の親であれば雪次郎が、「役者になる」、と言っても多分怒らないだろう。
なぜなら、現代の日本では資本主義社会の思想が社会の隅々まで浸透し、前項で書いたような価値基準が完成してしまっているからだ。
「父さんにも、投資のやり方教えてくれないかな」
逆に、親父が雪次郎に投資を教えてください、と頭を下げるかもしれない。
しかし、テレビ画面の向こうでブチ切れていたあの頑固そうな親父の場合は、雪次郎が「株で莫大な資産築いたので役者目指す」と言ったら、「なめてんじゃねえ、きちんと働け!!」と、さらにブチ切れたに違いない。
というのも、ドラマの舞台となっている戦後という時代の時点では、今のような「お金がすべて」という価値観はまだ浸透しておらず、「真面目に働いて人々のために尽くす」という価値観が優先されていたと思うからだ。
多分、それは戦後を経験している作家たちのエッセイを見たり、自分の祖父なんかを思い出してみても、間違いないように思う。
おそらく、祖父が今の僕を見たら雪次郎の親父以上にブチ切れること必死だろう。
「おじいちゃん、資産の90%をS&P500に連動するETFに投資しなさい」
とか言ったら、「世の中をなめるな!!」と叫びながら殴りかかってきたに違いない。
なぜなら、祖父は今とは価値観が違う時代を生きていたからだ。
「お金がすべて」という価値観も、個人的にはハッキリしていて嫌いではないが、それだけだとひどく息苦しくなる時があるのも事実だ。
そういう時に、価値観が違う時代に書かれた本屋や小説を読むと、何となく心が安らぐのを感じる。
昭和の初期に書かれた文豪の作品は、今でも根強い人気があるが、その理由は「今とは違う価値観」を懐かしむ心が、いつの時代でも人々の心に沁みついているからではないだろうか。
ただ、時代を巻き戻すことは不可能なので、僕たちは今の価値観に沿った行動をし、出来るだけ時代に合った生き方に幸せや安らぎを感じる必要があるし、そうした方が楽に生きれる。
なので、もしも天国の祖父が夢の中に現れたら、きっと僕はこう言うだろう。
「おじいちゃん、資産の90%をS&P500に連動するETFに投資をしなさい」
※S&P500の意味が分からない方は、このブログで調べてみて下さい。
株で夢をかなえよう
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